理気二元論がわかりやすく

理気二元論がわかりやすく



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朱子学
朱子学とはどのような儒学思想なのか。

儒教というのは、古代中国の堯ぎょう・舜しゅんなどという聖王の政治を理想とする復古主義的な思想で、春秋時代の孔子(紀元前五百年頃)が開いた。

この儒教についての学問である儒学は、歴史的に見ると、漢かん唐とう訓くん詁この学(漢学)から宋代性せい理りの学(宋学)へと大きく変化したと言われる。

漢代から唐代にかけての儒学は、主として五経(書経・易経・詩経・春秋・礼経)や『論語』などの訓詁注釈(古字句の読みや解釈)の学問であり、いわば儒教のテキストを正しく理解するための学問であった。

ところが、宋代になると仏教(とくに禅宗)の影響をうけつつ、儒教を哲学的に再編しょうとする動きが起こり、「道」「理」「気」「性」などという概念を駆使して、世界と人間のあり方を統一的に説き示そうとする「道学」「理学」としての儒学が形成されることになった。

これが宋代性理の学(宋学)であり、この宋学の流れを集大成したのが朱熹しゅき(朱子)による朱しゅ子し学がくである。

宋学においては従来の五経とは別に、儒教の正典カノンとして四し書しょ(論語・孟子・大学・中庸)が定められて(大学・中庸は礼記から取り出された)、朱子は、その『四し書しょ集注しっちゅう』を完成させて、儒学を新たに政治・道徳の学問とする朱子学を打ち立てた。

宋学の集大成としての朱子学の概要を、存在論(宇宙に存在するとはどういうことかについての論)、心性論(人間の心とはどのようなものかについての論)、修養論(人間はどう生きるべきかについての論)という三つの柱を中心にして説明すると次のようになる。

まず朱子学の存在論は、理気二元論と称される。

宇宙にあるすべての存在は、形けい而じ上じょうの「理」と形けい而じ下かの「気」というものからなっていて、物に常に「理」と「気」が一体化して共在しており、これらを分離することはできない。

「理」とは物の秩序・法則であり、「気」とは運動のエネルギーを持ち、物を形作る物質である。

宇宙にある存在はすべて「気」によって構成されているが、「気」は常に運動状態にあり、その「気」の動きの小さい状態を「陰」、動きの大きい状態を「陽」という。

この「陰」と「陽」の組合せによって、物質を形作る元素ともいうべき五行(木・火・土・金・水)が生成され、さらにこの五ご行ぎょうの配合によってさまざまな物質が生み出される(「万ばん物ぶつ化か生しょう」)

しかし、このようにして生み出されたさまざま物質は、無関係・無秩序に存在しているのではなく、そこには宇宙全体を統括する統一的な物質が貫徹している。

これを「理」(天の秩序)であるとともに、個々の事物に内在する個別な「物理」(物の秩序)でもあるとされる。

このことを「理り一いつ分ぶ殊しゅ」(理は、人間においては「性」として存在し(「天てん人じん合ごう一いつ」)、これが人間の行動の規範すなわち道徳となる。

そして、その「理」の根拠になる、宇宙における根源的なものとして想定されたのが、「太だい極きょく」という概念である。朱子はこれを「無む極きょくにして太極」と規定した。

無極はもともと『老子』の言葉で虚無を意味するが、朱子学では「冲ちゅう漠ばく無む朕ちん」(混こん沌とんとして兆しのないこと、無形無象)をいうとし(『羅林先生文集』巻六十九「随筆五」)、理の根拠である太極に明確な形はないが、理はそこに存在するというのである。

以上のような朱子学の存在論である理気二元論のイメージを図式化すると、おおよそ左図のようになる。

次に朱子学の心性論とはどのようなものか。

朱子は人間の心を次のようなものとして説明する。

人間は肉体とは別に心を持っている。

肉体は「気」によって成り立っているが、心には生まれ付きの「性」というものがあり、これは心のなかの「理」とでも言うべきもので、「天理」と繋がっている。この心のなかの「理」である「性」が外界の刺し激げきを受けた時に、心のなかに「情」が発生する。

朱子は人間の心のなかの「理」を「性」とするが(「性即理」)、同時にこの「性」を「本ほん然ぜんの性」と「気き質しつの性」という二重性において捉えた。

「本然の性」が即すなわちち「理」であるが、人間の肉体が「気」によって成り立ち、心が肉体に依存している以上、「気」の状態によって「性」のあり方も一様ではなく、現実的にはさまざまな「気質の性」として「性」は個々人の心に存在するという。

「本然の性」は人間における「理(天理)」であるから絶対的に善であるが、「気質の性」は欲望(私欲)のために混濁し不透明であり、悪の要素を含んでいるものとされる。

つまり人間の犯す悪は、欲望(私欲)に由来すると考えられた。

現実の世界には善悪さまざまな人間がいるが、「気質の性」が透明で「本然の性(天理)」を実現した人間が聖人であり、「気質の性」の混濁の程度がひどく、欲望のままに行動する人間が悪人ということになる。

したがって、人間の倫理的な課題とは、心のなかの「気質の性」から混濁を取り去って、心を「本然の性」に回帰させるよう努力するということ、つまり心なかから悪の原因となる欲望(私欲)をなくして「理(天理)」を回復するということでなければならないとしたのである。

それが天の理、天の道にかなう人の道であり、そのために人が努力しなければならない規範(基準)が道徳なのである。


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